熱中できること
もう二十云年生きているのだが、イマイチ「コレー!!」ってハマれることに出会っていない。
それは好奇心が足りないのか、行動力が足りないのか、単に出会えていないだけなのか、何なのかはよくわからない。
今日デートしてきた友達は
「やりたいことがいっぱいあって困るー!」
と言っていた。
やりたいことがいっぱい!!
嗚呼、なんてステキなんだろう。
あとの何十年(予定)の人生をかけてやりたいこと。
ライフワークとでもいうのかな。
今んとこ見つからない。
それで焦ったりもする。
でも、まだ焦らなくていいんじゃないか、
というか、
焦って探すようなことではない、
とも思う。
プロフェッショナル
と呼ばれるひとは、少なくとも確実にあるひとつに集中して取り組んで、そして成果を出している。
今、さまざまな分野に才を伸ばしているひとだって、最初はきっと何かただひとつに集中していたんだろう。
イチローとかそんな感じ?
一方、何でもかんでもやってみて、どれでも成功してるひとは…いるとしてもきっと少ない。
その点、アタシは器用貧乏とでも言うのか、
どれも大体問題ないぐらいには出来るのだが、
どれも特に秀でているわけでもなく。
でも、問題はきっと秀でてるかどうかというよりは、
自分の意欲のあるなしなんだろうな。
ただーし。意欲ってのは、湧かそうと思って湧かせるもんでない。
少なくともアタシは。
どんなときに自分の意欲が出るのか、集中できるのか考えてみる。
- 手を動かしてひたすら何かをつくるとき
- ひとから期待されているとき
- ひとから評価されたとき
- ひとの役に立てるとき
- 役に立ってる実感があるとき
- 次の楽しみに繋がるとき
- ほかのことを考えなくてよい状況のとき
- 同時進行しなくてよいとき
- こころに余裕があるとき
- 極度の空腹に襲われていないとき
- 睡眠をちゃんととったとき
- まわりのひとがイライラしていないとき
- 成長したな、と思えたとき
うーん、そんなもんかな。
結局、「心と体に余裕があって、自分を見ていてくれるひとがいるとき」ってことか。
逆に「心にも体にも余裕がなくて、誰にも見ていてもらえないとき」は、自分の意欲ゼロってこと。
まぁ、当たり前っちゃ当たり前だけど。
どういうわけか、人から頼られることは好きで、それで感謝されたり、喜ばれたりすると存在意義を感じたりする。
頼りにしてるよ~って言う面倒事の押しつけは厭だけども。
ひとから認めてもらえるってことの比重は自分の中で結構大きい。
評価主義の中でどっぷり生きてきてしまったせいかな。
理由は何にせよ、どうしても人から認めてもらえないことに関して意欲は湧かない。
たぶん、自分の好きな作業でも、ひとに期待されていないことならやらない。
それぐらいの重さ。
自分がない
って言われたらそれまでだけど。
でもさー
自分というものを形成しているのは自分自身のようで違ったりするんだよ。
自分という物体は確かにココにあるけど、
世界中のありとあらゆる人に存在を無視された場合、
それは社会的に存在しないことになってしまって、
自分がココにいるって自分ではわからなくなって…
きっとそれって発狂しちゃう事態。
だから、自分のまわりのひとって大切って思う。
実は自分を形作っているものは、自分のまわりのひとたち。
自分が自分だってわかるのは、まわりのひとがいるから。
類は友を呼ぶ、とか
友達は選びなさい、なんて言うのもきっとそんな理由もあるんだ。
人の役に立ちたいっていうのは、結局自分の存在を確認したいから。
じゃないと透明になっちゃうよ。
尽くすのとか好きだし、苦痛じゃないって話を同期女子にしたとき、
「すごいねー」
って言われたな。
すごいのか?
アタシにしてみれば、しないでいられる彼女たちのほうがすごいって思える。
だって、他の方法で、自分を自分で認識できているってことだもの。
自立してんだなぁ。
アタシはたぶん、自分というものの存在認識に、まわりのひとを使いすぎてるんだろな。
だから大抵の環境に適応できんだろうけど。
皮肉ー。
それはそれで、アタシの良さだって思ってるけど。
でもさー透明人間ってやっぱり透明だもんね。
自分にもう少し色づけするために、熱中できる何かを見つけたい。
何か。
何か。
今はそれを探している途中。
見つけられたらそっからまたスタートだ。
人生は
終わりなき旅